たくさんのおもいこみや偏見があって、
たくさんの「そうでなければならないはずのもの」があって、
たくさんの「あたりまえのこと」があって、
似ているモノもホントは全然違っていて、
ヒトにはそれぞれの価値観があって、
逆説の逆説は別に正論にはなりえなくて、
それでもおそらく地球は一個で、
何か考えがあるというわけではなく、
だからと言って何も考えていないというわけでもなく、
何か主張があるというわけではなく、
それでも何もおもっていないわけではなく、
はい、と、いいえ、のあいだと、
できる、と、できない、のあいだと、
は、ふつう、になるわけではなく、
世界はひとつで、
たくさんのヒトがいて、
自分のなかにもたくさんの自分がいて、
そんなこんなで世の中は構成されてたりする。
複雑なのに地味、
鮮明ではない。
ぼんやりしていて、どちらかといえば偶然で、
それでも意志はある。
それらは同時性の
多様な感情の一瞬で、
あいまいな言葉でしか表すことのできないもので。
一瞬、は、決定的瞬間には
ならなくて
各々の時間は各々の時間でしかなく、
普通であることはあたりまえに普通であり、
特別なことはもちろん特別で、
それは共有を強いることはできないものだけども、
固定観念を脱却しようと試みる。
廣田美乃
廣田美乃の絵画について
写実的でもなく、漫画的でもない表現、そこにリアリティを感じ、子供のように見えても、ひとりの人間の人格が感じられる。人の顔をモチーフしている廣田美乃作品をしばらく見ていると、なぜか「ジーン」と来てしまいます。言葉にならない情感が表現されていて、たしかな心の存在を感じます。凛とした緊張感のある画面に心が洗われるような感覚を覚え、現代的な空気感の中に懐かしい情感を同時に感じることが出来ます。
廣田作品に描かれた人物の顔に表現される心理描写には、とても同時代的でリアリティがあり、しばしば心の底から「そうだ!」と共感できます。その表情には今の社会状況も読み取れるほどの質を宿しています。加えて、感情の機微を、たとえようもなくニュアンス豊かに描き出しています。なかなか触れ合えない人のこころの在りようを、静かに、しかしリアリティあふれるタッチで描いています。一般的な写実的リアリズムでは、伝わりにくい心の機微を、彼女独自のスタイルで表現しているのです。
ところで、わたしたちはなぜ、人の表情が気にかかるのでしょうか?人の表情に関心を持つとき、人は既に世界の根本問題の中に身を置いているはずです。
描かれたものが、即、言語に翻訳出来てしまうかのような楽観的な視点は廣田の作品にはありません。言語を用いる際に曖昧な言葉でしか表すことのできない微妙さを尊重して、絵を描きます。あいまいさの否定の否定、均一化、平準化、ステレオタイプ的思考への異論。
本当の意味での「多様性」を人の顔の個別性を通して見せてくれます。言葉ではなく線と色彩で表現する、絵画的特質が生かされている作品です。
廣田美乃のとても魅力的な「絵画」は、単に子どもや、人の顔を描いただけの作品であるに留まらず、わたしたちとってたいせつな事を、絵を通して私たちに伝え、わたしたちの感情を静かに揺り起こし、人生の味わい深さを感じさせてくれる作品だと言えましょう。
現代社会の大きな流れの中で失われそうになっている大切な心の価値を、人物の顔を描くことで素直に表現しているともいえるでしょう。
過っては確かだと思われていて、それを基に生きて行くべき物の見方や考え方が、確かなものではなくなってしまった時代に生きている個々人の抱く現実意識や世界観をそれとなくぼんやりと、しかしみずみずしく表現しているのです。
そして、描かれた人物のそれぞれの表情から読み取れるイメージは、観る者の共感を誘い、分かち合いたい気持ちが分かち合えない感覚を、人物の微妙な表情をとおして表現している作品に、いつの時代にも共通する「個と他」との関係のあり様に関する視点を認めることが出来ます。
心の機微をいとおしく描く作家、廣田美乃は人々の心に奥深く染み入るような作品を創作し、その「純真さ」に価値を置く表現行為に、私たちがジーンとくるのではないかと思われます。
自ら木材を切り、綿布を張ってアクリル絵の具で描く作品は一般的には洋画の範疇に入れられるものの、その表現スタイルや作品から感じられる印象はむしろ日本画に近いものがあります。日本の洋画がここまで咀嚼されてきた一つの例であるとも考えられます。
この点を含め、廣田美乃作品に感じられる作家の持つ確固たるものは、ひとつの尊重されるべき価値観だと言えるのではないでしょうか。