伊藤泰雅 日本, 1964

―無意識を軸に生命と世界との関係を描く―

 

結晶する風景

 

自然に見えるように、自然に近づくように、

そして「もう一つの自然」となるように

 

「結晶する風景」という主題は叩き筆による描法と深く関わっている

叩くことによる無意識の導入によって「描く」ことを拒み

「描かれた」画面ではなく、「結晶した」画面ができる。

 

「描く」ことを超えて自分の感性と画面を直接に結びつける行為が「叩く」こと

それによって現れてくるのは内面に宿る風景だ

自分の中にある自然の記憶を絵具という形で表出させ記録する

 

自然は心地よいリズムを持っている

人体、木、花、川、海、風景、動物をデッサンしているとわかる

そしてそのリズムは自分の中にも在る

自分の身体的リズムが自然のリズムと同調したとき

絵画は結晶する

 

伊藤泰雅

 

伊藤泰雅の作品について


 伊藤作品<結晶する風景>の前に立つと身体と心が絵の中に入り込み、 ゆっくりとどこかに旅するような気持ちになってきます。そして、実際の絵の大きさを超える、広大な広がりを感じ始めます。
 また、描かれたものが光を宿しているように見え、いのちの輝きのようなものが感じられます。あたかも言葉以前に抱く、言葉にできないイメージが表現されているようで、動きを感じさせる画面は無意識領域におけるいのちの躍動の記録のようにも見えてきます。したがってそれは、光を求める生命の原初的な雰囲気の表現であるとも言えましょう。
 加えて、作品には宇宙を感じる要素も含まれています。絵画の画面に宇宙の広がりと生命の輝きを感じることが出来る仕事なのです。それが伊藤泰雅の<結晶する風景>を前にした時に私たちが覚える、ある種の心地よさと安心感のようなものの由って来るところだと思われます。
 ところで<結晶する風景>作品群では遠近法は採用されていません。遠近法を用いずとも奥行が感じられ、三次元性を有する作品となっています。二次元平面で宇宙や存在を感じさせ、見せてくれる凄さを有する作品なのです。
 そして<結晶する風景>では「叩き筆」と言われる、キャンバスに筆を叩き込むような仕方で、我を忘れるほど制作に没入する技法が採られています。作品の制作に際して無意識を意識しているところが、この作品群の芸術論的に重要な要素です。
 これらの作品には西洋芸術の根本的構成要素の一つである「闘争性」(アンドレ・マルロー)が無く、二項対立的要素がありません。我汝、正邪、善悪などの二項対立性とは無縁なので、見ていると気持ちが休まり、静謐感を得る事ができます。また、画面作りがとても丁寧で、ある種の優れた工芸性を有します。その意味でも、とても日本的表現であるともいえます。
 伊藤泰雅の<結晶する風景>作品群は西洋の美術史とは異なる文脈から生まれてきた、現代的で日本的な油彩絵画であり、欧米の美術史を相対化しうる可能性を秘めている作風であると言えるように思います。
 作家は生命現象の一回性に深い意味を見て、ある時の記録として絵画に取り組みます。その作品に感じられるのは、人の内部に絶えず生まれてくる(無)意識と(宇宙)世界のダイナミックな関わり方の様子なのです。